千住(センジュ)
地名
足立区千住(センジュ)、千住曙町(センジュアケボノチョウ)、千住旭町(センジュアサヒチョウ)、千住東(センジュアズマ)、千住大川町(センジュオオカワチョウ)、千住河原町(センジュカワラチョウ)、千住寿町(センジュコトブキチョウ)、千住桜木(センジュサクラギ)、千住関屋町(センジュセキヤチョウ)、千住龍田町(センジュタツタチョウ)、千住中居町(センジュナカイチョウ)、千住仲町(センジュナカチョウ)、千住橋戸町(センジュハシドチョウ)、千住緑町(センジュミドリチョウ)、千住宮元町(センジュミヤモトチョウ)、千住元町(センジュモトマチ)、千住柳町(センジュヤナギチョウ)
駅名
北千住(キタセンジュ) JR東日本 常磐線、東京メトロ 千代田線・日比谷線、東武伊勢崎線(東京スカイツリーライン) 南千住(ミナミセンジュ) 東京メトロ 日比谷線 千住大橋(センジュオオハシ) 京成電鉄
通り
千住宿場町通り
橋
千住大橋(センジュオオハシ)
諸説あります。
①1327年(嘉暦2年) 新井図書政次が荒川で網を打ち、千手観音を引き上げた。 この千手観音の千手が千住となった。
このときの千手観音は、新井図書政次の子の新井兵部政勝が開基した勝専寺(足立区千住2-11)にあり、足立区登録文化財に指定されています。
しかし、勝専寺の開基が1260年(文応元年)とされ、千手観音をを引き上げた年より67年前に息子がお寺を建てたことになります。
仮に息子が生まれてすぐに寺を建てたとしても、1260年にすでに父となった新井図書政次が、67年後に千手観音を引き上げたとしたら、かなりの高齢だったはずで、信憑性がいかがなものかと。
②関東の豪族である千葉氏が戦国時代ごろにこの地に住んでいたことから、千住(千葉氏が住んだ)になった。
③8代足利将軍義政(1436年~1490年 在任1449年~1473年)の愛妾千寿の名にちなむ。
千寿はこの地の出身。
千住の地名は、古くは1279年(弘安2年)にみられるそうです。
そのことから、②と③は時間的に不自然になります。
そういう①も時間的な行き違いがありますが、誰が千手観音を引き上げたかは別として、千手観音を引き上げた時期が間違って伝えられたということはないのでしょうか。
そうすれば、千手観音の発見→お寺の開基→千手が千住になった、ということでスッキリ。
地名には残っていないようですが、千住は②の説のように「千寿」のようにも使われたようです。
今でも、千住界隈の小学校の名に使われています。(千寿小学校、千寿本町小学校、千寿双葉小学校、千寿常東小学校、千寿桜小学校、千寿第五小学校、千寿第八小学校)
同じセンジュの音から、千の寿とは何ともおめでたいネーミングです。
kitasenju 北千住 03 / midorisyu