3月 182013
 

綾瀬(アヤセ)

地名 : 足立区綾瀬・西綾瀬・東綾瀬
駅名 : 綾瀬駅(JR常磐線・東京メトロ千代田線)、北綾瀬駅(東京メトロ千代田線)
川 : 綾瀬川

綾瀬川から

綾瀬川 = 埼玉県東部から東京都東部を流れる川。埼玉県北足立郡伊奈町北方が水源。埼玉県草加市付近から南流して東京都足立区綾瀬付近を通り、しばらく荒川と平行して流れ、葛飾区東四つ木一丁目・西新小岩五丁目付近で中川に合流する。長さ約48キロ。

綾瀬とは、いくつもの流れが交差して綾になって流れる様をいうそうです。

Huge clock 時計 in front of the Ayase Station 綾瀬駅 exit in Adachi Tokyo Japan
Huge clock 時計 in front of the Ayase Station 綾瀬駅 exit in Adachi Tokyo Japan / Arjan Richter

1月 212013
 

西新井(ニシアライ)

地名 : 足立区西新井
駅 : 西新井駅(東武伊勢崎線(東武東京スカイツリーライン)
    東武大師線(西新井大師西駅(東京都交通局日暮里・舎人ライナー)
神社 : 西新井大師

弘法大師の井戸に由来する。

平安時代に弘法大師がこの地を訪れ、悪疫流行に苦しむ人々を救うため、自ら十一面観音像を造って祀り、21日間の祈祷をしました。すると枯れ井戸から新しい水が湧き、それを人々に与えたところ、たちまち平癒したと伝えられます。

その井戸が十一面観音像を祀ったお堂の西にあったことから、「西新井」の地名ができました。

この他に、弘法大師は十一面観音像を祀り、自分の像を造り、全ての禍を背負わせて井戸に沈めたという話があります。そして疫病が治まった後に、人々の身代わりとなった像を取り出し、祀ったのが厄除け大師である西新井大師の起こりとなったとのことです。
さもありなんと言いたいところですが、当の西新井大師では、前者の話をホームページに載せております。 どちらであっても、弘法大師ゆかりのお堂の西にあった新しい井戸の意味なんですね。

弘法大師 : 空海(774年~835年) 平安時代初期のとてもえらい僧侶。高野山真言宗を広める。  

西新井大師 西新井大師 / sun_summer

1月 162013
 

千住(センジュ)

地名

足立区千住(センジュ)、千住曙町(センジュアケボノチョウ)、千住旭町(センジュアサヒチョウ)、千住東(センジュアズマ)、千住大川町(センジュオオカワチョウ)、千住河原町(センジュカワラチョウ)、千住寿町(センジュコトブキチョウ)、千住桜木(センジュサクラギ)、千住関屋町(センジュセキヤチョウ)、千住龍田町(センジュタツタチョウ)、千住中居町(センジュナカイチョウ)、千住仲町(センジュナカチョウ)、千住橋戸町(センジュハシドチョウ)、千住緑町(センジュミドリチョウ)、千住宮元町(センジュミヤモトチョウ)、千住元町(センジュモトマチ)、千住柳町(センジュヤナギチョウ)

駅名

北千住(キタセンジュ) JR東日本 常磐線、東京メトロ 千代田線・日比谷線、東武伊勢崎線(東京スカイツリーライン) 南千住(ミナミセンジュ) 東京メトロ 日比谷線 千住大橋(センジュオオハシ) 京成電鉄

通り

千住宿場町通り

千住大橋(センジュオオハシ)

諸説あります。

①1327年(嘉暦2年) 新井図書政次が荒川で網を打ち、千手観音を引き上げた。 この千手観音の千手が千住となった。
 このときの千手観音は、新井図書政次の子の新井兵部政勝が開基した勝専寺(足立区千住2-11)にあり、足立区登録文化財に指定されています。

 しかし、勝専寺の開基が1260年(文応元年)とされ、千手観音をを引き上げた年より67年前に息子がお寺を建てたことになります。
 仮に息子が生まれてすぐに寺を建てたとしても、1260年にすでに父となった新井図書政次が、67年後に千手観音を引き上げたとしたら、かなりの高齢だったはずで、信憑性がいかがなものかと。

②関東の豪族である千葉氏が戦国時代ごろにこの地に住んでいたことから、千住(千葉氏が住んだ)になった。

③8代足利将軍義政(1436年~1490年 在任1449年~1473年)の愛妾千寿の名にちなむ。
 千寿はこの地の出身。

千住の地名は、古くは1279年(弘安2年)にみられるそうです。
 そのことから、②と③は時間的に不自然になります。

 そういう①も時間的な行き違いがありますが、誰が千手観音を引き上げたかは別として、千手観音を引き上げた時期が間違って伝えられたということはないのでしょうか。
 そうすれば、千手観音の発見→お寺の開基→千手が千住になった、ということでスッキリ。

 地名には残っていないようですが、千住は②の説のように「千寿」のようにも使われたようです。
 今でも、千住界隈の小学校の名に使われています。(千寿小学校、千寿本町小学校、千寿双葉小学校、千寿常東小学校、千寿桜小学校、千寿第五小学校、千寿第八小学校)
 同じセンジュの音から、千の寿とは何ともおめでたいネーミングです。

kitasenju 北千住 03 kitasenju 北千住 03 / midorisyu

12月 172011
 

足立(アダチ)

区名(足立区)
町名(足立区足立)

足立の名は、7世紀に武蔵国足立郡にみられます。
武蔵国足立郡は、現在の東京都足立区から埼玉県鴻巣市までの細長く広大な地域でした。

由来としては、以下の説があるようです。

①この地域は湿地が多く、葦(アシ)の生い茂る土地であったため、葦が立つところ、葦立(アシダチ)が足立になったというのが有力です。

②日本武尊(または坂上田村麻呂)が立てるようになったという伝説から。
  日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は1世紀~2世紀の皇子。
  坂上田村麻呂(サカノウエノタムラマロ)は8世紀~9世紀の武官、征夷大将軍に任ぜられる。

  坂上田村麻呂の以前に、足立も名がみられることから、日本武尊のことではないのでしょうか。
 「立てるようになった」とは、赤ちゃんが立てるようになったのか、怪我や病気から回復して立てるようになったのか、蝦夷(東北の大和朝廷によって異族視されていた人々)討伐のために立った(出兵した)地であったかはわかりません。

③万葉仮名で「阿太知」だったものが、足立になったという説。

 万葉仮名は、日本語を記録するために漢字の音を借用して用いた文字のことで、起源は不明ですがが、7世紀ごろには成立していたそうです。
 この説から、「葦立(アシダチ)」と「阿太知」は無関係とする説があるようですが、むしろ、、葦立(アシダチ)→アダチ→阿太知→足立となったと考えるのが自然だと思いますがいかがでしょうか。(素人考えです。)
 「葦立」と「阿太知」 の無関係説の根拠は、よくわかりませんでした。たぶん、きちんと研究したからこそ、そういう説があるのでしょう。

untitled
untitled / t-miki

Get Adobe Flash player