6月 042014
 

池上(イケガミ)

地名:大田区池上・仲池上
路線・駅:東急池上線 池上駅
寺院:池上本門寺

諸説ありますが、よくわかりません。


①かつて、この一帯は湿地帯で池が多く、この池に亀が多く住んでいたため「池亀(イケガメ)」と呼ばれていました。これがなまって「池上」。

②かつての洗足池は広大な池であったため、池の周辺の土地であったとか、池の端に位置したことから「池上」となった。
 池が近くにあったらから、「池上」とは意味不明。

洗足池 = 大田区南千束2丁目にある洗足池公園にある池。公園の大部分が洗足池。

③東急池上線に「蓮沼」駅があります。その地域はかつて湿地帯で、蓮が群生する沼(池)でした。その北側(上部)に位置するので「池上」。

④この土地を支配した豪族が池上姓であったことから。

 池上氏にも諸説あるようです。
 i  池上宗仲(いけがみ むねなか、生没年未詳) 鎌倉時代の武士。
 ii 10世紀にこの地を支配した藤原氏が池上姓を名乗ったため。

 残念ながら、池上氏が来る前から池上の地名は存在していたようです。


とある情報によると、現在の「池上」はかつての池上村に由来し、池上村は今の上池台から仲池上あたりになるそうです。
そう考えると重きをなすのが、やはり洗足池。
池は水の溜まった低地であるため、池を囲むように高台が形成されるはずです。
洗足池の周辺の高台を池の上→池上と呼んだとするのは、ごくごく自然なことです。
それで池上村ができた。しかし、かつての池上村は再編成や統合により、場所が本来の場所からずれてしまったため、現在の「池上」から由来を想像しにくくなってしまい、なんとかつじつまを合わせようと諸説ができてしまったと考えては、いかがでしょうか。

由来の真相はこんなところなのかもしれませんが、この辺を指摘する説は見当たりませんでしたので、あくまで想像ということにしておきます。
この地域の代表といえば、池上本門寺、日蓮聖人、洗足池ですから、何とか関係づけようと考えるのも無理からぬことですが。
 

池上本門寺 = 日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282年)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)された霊跡。

日蓮(にちれん)聖人 = 日蓮(にちれん)1222年~ 1282年 鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教の宗旨のひとつ日蓮宗(法華宗)の宗祖。

池上(洗足池)

池上の賃貸マンション

5月 282014
 

吾妻橋(アヅマバシ)

地名:墨田区吾妻橋
駅名:本所吾妻橋駅(都営浅草線)
橋名:吾妻橋


隅田川にかかる橋、吾妻橋に由来する。


町人がお金を出し合い幕府に嘆願して許可を得た吾妻橋が隅田川に架けられたのは、1774年(安永3年)のことで、当時、隅田川が大川と呼ばれていたことにちなんで、「大川橋」という名前だったそうです。
ところが、江戸の人々は「あずまばし(あづまばし)」と呼んでいたそうです。

なぜ、「あずまばし(あづまばし)」かというと、

①橋が江戸城の東側にあったので「東(あずま)橋」。
 筆者の想像では、浅草から対岸の東側に行くので、「東(あずま)橋」というのありな気もしますが、どうでしょうか。

②浅草から橋を渡って対岸にある吾嬬(あづま)神社の参道になったことから「吾嬬(あづま)橋」。
 ※「嬬」は「妻」の同義語

 吾嬬神社(墨田区立花1-1-15)


なるほど、となりますが、さらに②の吾嬬神社の起こりがまた興味深い。

古代、日本武尊(ヤマトタケル)の東征の際に相模から上総へ渡ろうとして暴風に遭い、弟橘媛(オトタチバナヒメ・日本武尊の妻)が身を海に投じて暴風を鎮めたことから、日本武尊は当時浮き洲であった当地に上陸できたものの、弟橘媛は行方知れずとなり、弟橘媛の御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだと伝えられます。


この伝承は、他の土地(神奈川県や千葉県)にもみられ、日本武尊(ヤマトタケル)、弟橘媛(オトタチバナヒメ)にちなんだ神社もあるそうです。
しかし、吾が妻(嬬)の神社と呼ばれているのは、吾嬬神社だけのようで、なんだか太古のロマンのようなものを感じます。(おっさんの世迷言でしょうか。)
この伝承にまつわる地名が他にも各地に残されているそうです。

吾妻橋は1876年(明治9年)年に架け替えられ、正式に「吾妻橋」となったそうです。
そして、1966年(昭和41年)の新住居表示により吾妻橋の地名ができたとのことです。

吾妻橋

5月 232014
 

大井(オオイ)

地名 : 品川区大井 西大井 東大井 南大井
駅名 : 大井町駅(JR京浜東北線・りんかい線 東急大井町線)、西大井駅(湘南新宿ライン)、大井競馬場前(東京モノレール)


いくつか説があるようですが、はっきりしていません。
光福寺の井戸の説が親しまれているようです。


説としては、以下の通り。

①光福寺(品川区大井6-19-17)は麻布山善福寺の中興の祖である了海上人が誕生した地として有名です。
 了海上人が誕生した際に、泉が湧き出し、その泉の名前を「大井」と呼び、それが「大井」の地名にもなった。

 光福寺 = 品川区大井6-19-17。延暦元年(782年)の創建。

 麻布山善福寺 = 弘法大師が関東一円に真言宗を広めるために、高野山に模して麻布山善福寺を天長元年(824年)開山。都内では金竜山浅草寺につぐ最古の寺院。

 了海上人 = 幸福寺にて誕生。七才で仏門に上り、比叡で顕密二法を修めた俊英の僧で、当時若冠十七才でした。 延応元年(1239年)~元応2年(1320年)

②大井氏によって治められた地であるから。(鎌倉時代初期)
 実はこの地を治めるようになってから大井氏を名乗るようになったそうです。

 大井 実春 = おおい さねはる(生没年未詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武蔵国荏原郡大井郷の武将。鎌倉幕府御家人。
        父は紀実直。本姓は紀氏。同族に品河氏がある。通称は兵衛次郎、兵三次郎。

③藺草(いぐさ)が生い茂っていたことから「大藺」の名が起こり、後に大井に転じた。

④深い入江を「大江」と呼び、それが訛ったとする説。

⑤よく肥えた土地で大なる収穫があったため、古代の税収制度の井田制にちなんで、「大井田(だいせいでん)」となり、それを「おおいだ」と読んで「大井」となったという説。


①の光福寺の井戸の説について補足。
 伝説では、了海上人が誕生した際に湧き水が起こり、産湯につかったということで、その後、山号を大井山にした、ということになっています。
 大井の名は、927年(延長5年)に完成した律令の細則(延喜式)に宿駅名としてあるため、この光福寺の説は時間的に無理とされます。
 しかし、とある古書にこの井戸はこの横に大きな穴であったという記述あり、普通に想像する縦に掘られた井戸というより、大きな洞窟のような穴から湧き出る水ではなかったのでしょうか。
 伝承では、横に大きな穴、横井(おうい)が大井になったという説もあるそうです。


 了海上人が産湯につかったのは確かかもしれませんが、井戸自体はもっと古くからありました。
 しかしあまりにも有名になった了海上人をたたえるため、大井の由来も了海上人の功績と語られるようになったのではないか、と仮定したらいかがでしょうか。

大井競馬場

4月 272014
 

浮間(ウキマ)

地名 : 北区浮間
駅 : 浮間舟渡(ウキマフナド JR埼京線)
公園 : 浮間公園
橋 : 浮間橋
神社 : 浮間不動尊(北区浮間2-19-6 氷川神社内) 


荒川に突き出た形が浮島に見えたことから起きた地名。
かつては「浮間ヶ原」と呼ばれていた。

浮島→うきしま→うきま→浮間 ということ。

浮間(浮間公園)

4月 252014
 

浅草(アサクサ)

地名 : 台東区浅草・西浅草・東浅草・元浅草
駅 : 東武伊勢崎線「浅草」駅、東京メトロ銀座線「浅草」駅、都営浅草線「浅草」駅
寺 : 浅草寺(たぶん)

草の少ない土地だったから。→草が浅い(草深いの反対) = 浅草

浅草の名前が書に出てくるのは、1181年(養和元年)の「吾妻鏡」が最初のようです。
由来の根拠となるのは、「江戸往古図説」にある

往古下谷より此わたりへかけて平地にして武蔵野の末にて草もおのづから浅々しき故浅草と云しなるべしといへりさもあらんか

という記述です。
素人ながら要約させていただくと、「草も少なく(浅く)て、浅草というのも頷ける」っといった感じでしょうか。

この「江戸往古図説」の出所がよくわからないのですが、1800年(寛政12年)にできた書物のようで、その中を見ると、康正2年(1456年)や天明4年(1784年)の期日があります。
古文書なんか読んだことないので、推測するに、康正2年(1456年)ごろの記録が、天明4年(1784年)に見つかったということではないかと。

そうしますと、この記述はけっこう時代が新しいように感じられます。
これでは、地名の裏付にはなっても根拠というには時代に隔たりがありすぎるのではないかと。

そこで想像を働かせて、浅草といえば浅草寺。
かの有名な浅草寺ができたお陰で街が発展し、人が集まった。街が発展すれば、草は刈り払われ、草も浅くなる。
それで浅草になった、というのはいかがでしょうか。

ここまで言っておきながら、しかし、それでは浅草寺の命名はいつから、ということになってしまいます。

お寺が建立されて街が発展し、街が浅草と呼ばれたので、お寺も浅草寺と呼ばれるようになったなら、そういう逸話が伝承されててもよいように思いますが、そんなことは全くなさそうですので、浅草寺は初めから(そうでなくとも相当古いころから)浅草寺だったようです。

ここまで考えると、やはり浅草寺ができる前から、浅草は浅草と呼ばれていたと考えるのが自然です。

元々、この地は隅田川の河口付近で産物も豊富、平地でしかも高台、暮らしやすい土地だったらしいので、自ずと人が集まり栄えていたとも考えられます。それで、草が浅くなった。
それとも、街が発展したために草が浅くなったということではなく、ただ単に元々、草の少ない土地だったというだけなのかもしれません。


浅草寺(せんそうじ)
東京都台東区浅草2-3-1にある東京都内最古の寺。雷門や仲見世があり、東京有数の観光地でもある。
浅草寺は、628年、推古天皇の時代、この土地の漁師が隅田川で観音像を網で掬い上げ礼拝供養したのが始まりとのこと。

日本仏教では、中国での発音が原則のため音読みの「せんそうじ」となるそうです。
(京都の清水寺のように例外もあります。)

浅草(浅草寺)

4月 212014
 

神田(カンダ)

地名 : 千代田区神田○○、・内神田(ウチ)、・外神田(ソト)、・西神田(ニシ)、・東神田(ヒガシ)
駅 :   神田駅(JR、東京メトロ銀座線)
神社 : 神田明神
川 :   神田川

神社が所有する田を指す神田(しんでん、かんだ、こうだ、かみだ)に由来する。

神田は神社(しばしば伊勢の神宮)に納める稲を作る田のことで、それがあった場所の地名になっていることも多いそうです。
ということで、この周辺は神社の所有する田のあった地と思いたいのですが、いかがでしょうか。

では、神田周辺にはそんなにたくさんの田んぼがあったのかということに、疑問が残ります。
現在の千代田区には神田の名のつく地名がたくさんありますが、そこが全て田んぼだったかどうかはわかりません。
現在の神田○○の地名ができたのは、1947年(昭和22年)に、かつての神田区と麹町区が合併した千代田区の誕生の際に、神田区の町名には「神田」を冠した町名に変更されたことによります。(一部例外の町名あり。)
こんなに広大な地域が田んぼだったとは考えられないですよね。

そこで気になる存在が、神田明神です。

神田明神は、平安時代の730年(天平2年)、武蔵国豊島郡芝崎(現在の千代田区大手町将軍塚周辺)に創建された大変古い神社です。
のちの1309年(延慶2)に平将門の霊を相殿に祀り、神田神社と名付けられました。

(そんなんです。「神田明神」という名は通称で、正式には「神田神社」正しいそうです。「神田明神」の名前があまりに親しまれているので、あえてそうしているそうです。)

徳川家康が江戸幕府の地と定め、大規模な城下の造成工事を始めることとなり、1616年(元和2)に江戸城の表鬼門に当たる現在の地に移されました。それ以降、歴代将軍の崇敬も篤く、神田明神は江戸の総鎮守として庶民に至るまで人々の崇敬を集めてきました。
今でも、神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神でその影響は広範囲に及ぶそうです。

このような訳で、広く江戸の街に影響を及ぼした神田明神の名が、今でも数多く残る「神田」の地名の元となったと考えてはどうでしょうか。
「神田」は、言葉の起こりとしては、神社の田んぼで正しいと思いますが、東京の神田の由来としては、この地にある神田明神の神田が由来といってもよいのではないでしょうか。
(100%想像です。)

その神田明神ですが、そのホームページで神田明神の「神田」の由来について、話されています。
確かなことはわからないようですが、以下のような説があるそうです。

①神社を創建した真神田氏の名からとり「神田」とし地名の「神田」もここからつけられた。
②ご祭神・平将門命にちなんだ説として、将門公の「からだ」がなまって「神田」、「からだの明神」が「神田明神」となったという説や、将門公の「かため」がなまって「神田」、将門公が片目を射抜かれたという伝説からつけられたものなどがある。
③「神田」を「みとしろ」と読ませ、伊勢の神宮に奉納する初穂を作る神の田んぼ=神田(みとしろ)から名づけられたという説

神田(神田明神)

4月 202014
 

岩淵町(イワブチマチ)

地名 : 北区岩淵町
学校 : 岩淵小学校

荒川のほとりでゴツゴツとした岩場だったことから起きた地名。

岩淵は古くからある地名で、古くは鎌倉時代の書にその名がみられます。
かつては武蔵国豊島郡岩淵郷(いわぶちのさと、いわぶちごう)と呼ばれた地域で、1429年(正長2年)の書には、「武蔵国岩淵関所」の名があり、この地が古くからの交通の要衝だったことがわかります。
また室町時代の「小田原衆所領役帳」には、「太田新六郎知行江戸岩淵五ヶ村」とあり、岩淵郷には5つの村が存在していたようです。

小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)
 相模の戦国大名北条氏康が作らせた、一族・家臣の名や禄高、地位、役職などを記した帳面。
 原本は伝存せず、氏康期にあたる1559年(永禄2年)の写本。
 後北条氏は、1520年(永正17年)から1955年(弘治元年)にかけて領国内における数度の検地を実施しており、それに基づいて作成されたと考えられている。

江戸時代にはこの岩淵から新堀村(現在の荒川区西日暮里)、下駒込村(現在の文京区本駒込)のあたりまで広く岩淵領が置かれていました。
その中の岩淵宿は日光御成街道の第一の宿駅であり、岩淵郷の本村(中心)でした。
「元禄の改め」では岩淵本宿と記され、「正保の改め」では岩淵町と記されています。
明治に入り、岩淵本宿町が正式な名称となりました。

1889年(明治22年)、市制町村制により、岩淵本宿町、稲付村、赤羽村、袋村、下村、神谷村が合併し岩淵町となりました。
当初は、「岩淵町」ではなく「赤羽村」という名称にする予定でしたが、住民が岩淵本宿町が分村の名前に変えられることへ大きく反発したため、結果として「岩淵町」が採用されたそうです。
その理由は、鉄道の発展により岩淵本宿町が衰退し、軍事都市赤羽が発達しつつあったことによるそうです。

岩淵町(岩淵水門)

 

4月 202014
 

日本橋(ニホンバシ)

地名 : 中央区日本橋(日本橋○○は又今度)
駅名 : 日本橋駅(東京メトロ銀座線・東西線、都営浅草線)、東日本橋駅(都営浅草線)、新日本橋駅(JR総武線快速)
橋 : 日本橋
川 : 日本橋川
通り : 日本橋通り

橋の名前の日本橋から。

日本橋 = 中央区を走る中央通(国道1号線)の中央区を流れる日本橋川にかかる橋。

日本橋が架けられたのは徳川家康が幕府を開いた1603年(慶長8年)と伝えられ、江戸の街を造るために諸大名に工事をさせ、江戸城と江戸湾をつなぐために、平川という川を延長し、この川に架けられた橋が後に日本橋となったそうです。

日本橋は、東海道をはじめとする五街道の起点としても有名です。
現在では道路の起点を定める法律はないそうですが、戦前の道路法では、日本橋が道路の起点とする道路元標でした。
そのため、今でも国道1号をはじめ、いつかの国道の起点となっています。
( 国道4・6・14・15・17・20号線)

しかし、なぜその橋が「日本橋」になったかははっきりしないようです。

説としては以下のようなものがあるようです。

① この地から朝日が海上に昇るのが見えたため。

② 「二本の木(丸太)」で造られた橋であったため。

③ 諸大名が作った江戸の街に造られた橋であるから、日本中の人々が造ったという意味で、日本橋になった。

④ 江戸の中心にある橋であり、全国へ街道の起点であったことから。

江戸時代からある名前ですから、江戸が日本の中心となる期待を込めてつけられた名前と考えるのが無難ではないかと思いますが、いかがでしょうか?
日本橋の架かるこの川(平川)もその橋の名前から日本橋川と呼ばれるようになったようです。

日本橋

4月 102013
 

新井(アライ)

地名 : 中野区新井
寺院 : 新井薬師(梅照院)(アライヤクシ(バイショウイン)
駅 : 新井薬師前(アライヤクシマエ、西武新宿線)

新しい井戸の意。

 
この地が開墾され、新しい井戸が造られたので、「新井村」となったのが起こりです。
井戸が造られたのは、1413年(応永20年)と、1570年(元亀元年)の説があるようです。

いずれにせよ、井戸ができ、新井村ができ、新井薬師が創建されたのが1586年とされます。
この新井薬師は、正式には、新井山梅照院薬王寺(アライサン バイショウイン ヤクオウジ)というそうです。

新井の由来は新しい井戸ですが、現在に残る新井の地名は、新井薬師の「新井」とする説もあるようです。

新井薬師

4月 032013
 

用賀(ヨウガ)

地名 : 世田谷区用賀
駅 : 用賀駅(東急田園都市線)

ヨーガ(ヨガ)教室のヨーガから。

 ヨーガ = 古代インドの修行法。

 
平安末期から鎌倉初期に、この地に真言秘密のヨガ道場ができたそうです。それが今の用賀の地名になりました。

この「ヨガ(yoga)」という言葉は、元々は古代インドの文字(サンスクリット語=梵語)で、漢字で書くと「瑜伽」となり、「ユガ」とも「ヨガ」とも読まれていたそうです。
地名としても、、「ユガ」と「ヨガ」の両方が起こったのではないかと思いますが、最終的には、「ヨガ」が残ったようです。

この地にある寺院、真福寺の山号が「瑜伽山」であるため、寺院が地名の由来では、との説もあるようですが、実のところ、用賀の地名が起こってから、この地に真福寺ができたそうです。
この真福寺の山号は、元は実相山だったそうで、その後、用賀の由来である「瑜伽」を取り入れ「「瑜伽山」としたそうです。

山号 = お寺の名前には○○寺・○○山・○○院があり、1つのお寺が3つの名前をもっていることもあれば、その一部しかないお寺もあるそうです。それぞれの名前をいうときに、○○寺は寺号、○○山は山号、○○院は院号と呼ぶそうです。

用賀

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